西郷どん第36話「慶喜の首」首置いてけ! なぁ、大将首だろう!

2020年2月10日

こっそり逃げるぜ!!

とどでございもす。

始まりました鳥羽伏見の戦い。

と言っても錦の御旗で大勢を決しました。水戸黄門の印籠のような効果です。

うっかり攻撃しようものなら「朝敵」となって討伐対象になってしまいますもの、現場の士気ってめちゃくちゃ大切ですね。

この戦いを経て慶喜は江戸に遁走するものの、勝海舟と山岡鉄太郎(鉄舟)のサポートで江戸無血開城に向かいます。

山岡鉄舟役の藤本隆宏さんはドラマJINで西郷隆盛役をやってました。自分の前世に会うような感じですかね。しかも直接会うってのもなかなか感慨深いです。

前回のあらすじ

坂本龍馬が暗殺されてしまいました。

袂を分かったとはいえ盟友を失った西郷さんは徳川排除をなんとしてでも成し遂げる方向に。

徳川が大政奉還した後の新政府で働くメンバーを決めるために、小御所会議が開かれました。

薩摩や岩倉具視は「徳川排除」をしきりに求めるも、土佐藩の山内容堂や福井藩の松平春嶽から猛反発を受けます。

西郷さんは休憩中、山内容堂を見ながら「短刀一本あれば片がつく。岩倉殿にこれを渡し、天子様に仇なす敵を討て」と大久保一蔵に短刀を渡しました。

完全に脅しですが、これによって小御所会議で徳川を排除する方針に決まりました。

徳川慶喜は京を出て大坂城に入りましたが、それを読んでいた西郷さんは兵を差し向けることに。

ただ兵を差し向けても何もできませんが、実は江戸に放った薩摩の工作員が放火や略奪などを繰り返して慶喜側を挑発、見事に挑発に乗った彼らは「薩摩討つべし」と挙兵。

慶喜を討伐する大義名分を得た西郷さんは嬉々として兵を挙げたのでした。

もうどっちが悪者か分かりもはん。

今回はこんな話

今回のハイライトはこちら。

  • 鳥羽伏見の戦い開戦
  • 錦の御旗で勝利ムード……かと思いきや信吾が狙撃されて大ピンチ
  • 京に入れないはずのイギリス人医師を呼んでなんとか治療
  • 「みんながんばれ」からの慶喜逃走
  • 勝先生、「あんた徳川の恥だよ」と慶喜を罵るも、上野で再度会見して慶喜の考えを認め、西郷との間をとりもつことに
  • 西郷、決死の覚悟でやってきた山岡鉄太郎の気迫に押され、勝先生の話を聞くことに
  • 江戸で篤姫と12年ぶりの再会

今回も気になる所を中心に。

鳥羽伏見の戦い

最初三重県の鳥羽で戦ったのかな? なんて勘違いをしてました。鳥羽水族館があるところね。鳥羽水族館は伊勢参りに行くならついでに行くとめっちゃ楽しいです。

京にある、伏見を通る鳥羽街道沿いで起きた戦いだから鳥羽伏見の戦いです。よかった、三重県が巻き込まれてなくて。京の人は中心にいるから巻き込まれて大変です。

伏見といえば伏見稲荷大社が有名。私も何年か前に出張で京都に泊まった時、夜に行ってみました。その時の様子はこちら。

この鳥羽伏見の戦いは、もともと薩摩が江戸でマッチポンプの狼藉を働いて挑発したことから始まります。

この挑発に乗って「薩摩討つべし!」と京に上ろうとする旧幕府軍が鳥羽街道を通り、それを薩摩を中心とした新政府軍が塞いでいたんです。

「こっちは大政奉還したとはいえ徳川の軍だぞ! 道を開けろよオラァン!」と道を通せと主張する徳川軍。一方の薩摩側は「知るかボケぇ! 朝敵が!!」と大砲と銃撃により攻撃を加えました。

どちらが悪者か分かりませんね。でも文字通り勝てば官軍です。

錦の御旗

使うだけで敵の戦意を削ぐことができるアイテム、錦の御旗が出てきました。金の太陽と銀の月が対になった旗です。金レイアと銀レウスを思い出しますね。

この旗は承久の乱の際、後鳥羽上皇が与えたものが最初だそうで。「鳥羽」というキーワードが光っています。

この旗がある以上、掲げてる側を攻撃したら朝敵になってしまうため、前線の兵たちは大いに動揺しました。ドラマの中でも慌てて逃げ出していましたし、「朝敵」とはそれはそれは恐ろしい状態なのでした。

自分が討伐対象になっているとか、安心して夜も眠れませんよね。

この旗を作るにあたっては、大久保一蔵の側室であるおゆうさんが活躍しました。最終的に朝廷の許可を得たとはいえ、作るときにはまだOKが出るかどうか分からない状態。表立って作ることができないので、おゆうさんが錦の御旗を作るための布を準備したみたい。

いくら新政府側とはいえ、相変わらず薩摩の面々は危ない橋を渡っていました。

シンゴー! シンゴー!

人の黒歴史を掘り起こすのも良くないけど、西郷信吾が狙撃されたときに西郷さんが「信吾! 信吾!」と声をかけているのを見てこれを思い出してしまいました。

吉之助の行動に疑問を持った信吾は「やりすぎじゃないか」とつめよるものの、首を撃たれて倒れてしまいました。

野戦病院として使われていた相国寺に担ぎ込まれた信吾、しかし日本式の治療方法では為す術もない状態でした。

そこに駆けつけたのがイギリス人医師のウィリアム・ウィリス。名前がスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスと似ていてちょっとびっくり。

彼は麻酔を使ってから銃弾を取り出す、外科的な方法で治療を行いました。これにより多くの薩摩藩士が救われました。

外国人の入京禁止

当時の京では外国人が入れなかったようです。

明治天皇の前の天皇である孝明天皇が外国人嫌いであったのもその理由かもしれません。

攘夷思想が中心になっていましたから、まずは天子様がいる京で外国人を追い払おうとしていたのでしょうか。

西郷さんが天子様に「京に外国人医師を入れ、未来ある若者たちを救ってたもんせ」と奏上した時には岩倉具視が大激怒。彼は公家ですから、天子様の威光を貶めるような行為は許せないのです。

京に住む一般の人も外国人に対して偏見を持っていたというのは、ウィリアム・ウィリスが相国寺にやってきたときのお虎さんたちのリアクションにも現れていました。

「俺は戦うぞ!」からの逃走

慶喜様のへたれエピソードのひとつ、首脳部だけで大阪城から逃走した話が出てきました。

昼に「俺は戦うぞ! みんながんばれ!」と鼓舞しておいて、夜逃げのごとく江戸に逃げ帰る。擁護が難しい残念エピソード。

が、一応慶喜の気持ちを想像してみることにします。

もともと慶喜は旧幕府の内部で「薩摩討つべし!」の気運が高まっていることに危惧を覚えていました。このドラマの中でも語られていたように、計略があったとはいえ朝廷を背にこちらに向かってくる薩摩と戦えば、朝敵の誹りは免れません。

朝敵となって自分が討たれれば、260年続いた徳川の名前を地に落とすことに。

大政奉還し、小御所会議で新政府から徳川を排除する方針と決まった後、実は慶喜も政権を再び手にするべく奔走していました。

外国の外交官たちには慶喜に外交権があることを示した上で「内政干渉はするな」と釘を刺していましたし、朝廷側に「会議で決まったことには従います。でも困ったことがあったらいつでもお助けしますからね(超好意的に意訳)」と手紙を送った後に朝廷から「うん、やっぱ徳川にお願いするのがいいかも」なんて認められたりもしてました。

しかしそれに危機感を持った薩摩が江戸で暴動、略奪、放火などの狼藉を働いたせいで、家臣たちのうち過激派が「薩摩討つべし!」と息巻いてしまいました。

慶喜としては、朝廷で慶喜の味方が増えれば正規の手段で政権を渡してもらえる可能性が高く、それに沿って薩摩を処罰すれば内乱を防ぐことができ、外国からの介入を防ぐこともできるのです。

ここをグッとこらえていればよかったのですが、過激派の意見に押されて先走って薩摩を討伐する方針になってしまいました。下手に止めれば「上様を斬ってでも薩摩を討ち果たします」なんて言いかねません。

そして鳥羽伏見の戦いが始まったのですが、新政府軍は錦の御旗まで持ち出すパワープレイで旧幕府軍を圧倒、早々に負けが決まってしまいました。

ここで慶喜が討たれてしまえば、それを大義として「上様の仇!!」と旧幕府軍が最後の一兵まで戦う恐れがあります。

内乱で日本の兵力が削れれば外国としては大人しく見守る理由もなく、武力で日本を制圧し始める可能性も考えられます。慶喜としてはこれをどうしても避けたかったのです。

結果として夜逃げのような形になりましたが、「上様が討たれてしまった! 許すまじ!」と「え!? 上様逃げたの? マジかよじゃあ俺らも帰っていいかな……」では生き延びる人数が大きく変わります。

西郷さんが慣例を破ってまで外国人医師を呼んで若者を助けようとしたように、慶喜も自分が情けない指揮官であると誹りを受けても、家臣たちが多く生き延びる手段をとったのです。

後半の勝先生との会話でも出てきますが、慶喜としては外国が日本を荒らすことを防ぎたかったのです。「慶喜は薩摩をフランスに売ろうとしている」というのは西郷さん側に漏れ聞こえた伝聞であり、ドラマの中ではっきりと慶喜が「薩摩を売る」と発言した訳ではなかったんです。ロッシュとの会談でも、ロッシュが「薩摩欲しいな」と言っただけで慶喜は返事してなかったはず。

お、こうしてみると、薩摩の側に立たなければ慶喜も別に悪いことしている訳じゃなさそうね。

慶喜討伐の総大将は有栖川宮熾仁親王

まぁそんな慶喜の願いも虚しく朝敵として慶喜追討令が出てしまう訳です。

その総大将になったのは、皇族である有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王です。

この有栖川宮熾仁親王、徳川家とちょっと因縁がある方でした。

14代将軍の徳川家茂と婚約した和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は、元々有栖川宮熾仁親王の許婚だったんです。

幕府が威光を取り戻し、公武合体を進めるために皇室に頼んで降嫁してもらったのでした。

有栖川宮熾仁親王がどう思ったかは定かではありません。慶喜追討の東征大総督に志願していることを考えると思うものがあったように感じますが、日記に「これはまだ内緒だけど、もし慶喜が恭順するなら助けることにするよ」なんて書いてあるので、西郷さんみたいに慶喜の首刈りまでは考えてなかってみたい。

日記は国立国会図書館のデジタルコレクション『熾仁親王日記 巻一』から読めます。慶喜の処遇については3月6日に書かれているのでぜひ。同じ日に「朝早くに富士山を見たよ。殊の外見事だった」なんて書いてあるので和みます。ちょうど駿府にいる日だったようですね。

その有栖川宮熾仁親王が東征大総督を務める慶喜追討軍で西郷さんは参謀として参加していました。「命まで取るのはやりすぎじゃない?」と訴える林玖十郎に対し、「いや、あいつだけはやらないとだめだ」と取りつく島もない西郷さん。何としても慶喜の命を奪うまで止まらない薩人マシーンと化しました。

林玖十郎はあまり情報がない人なのですが、あとあと改名して「得能亜斯登(とくのう あすと)」なんていう現代人もびっくりなDQNキラキラネームになっていることは分かってます。

実は一番の功労者・山岡鉄舟

山岡鉄舟と言い慣れているのでついこう書いてしまうのですが、徳川家臣の山岡鉄太郎は実は江戸城無血開城の功労者。

直接動けない慶喜と勝安房に代わって、慶喜が恭順の意を示していることを敵地のど真ん中にいる西郷に伝えに行きました。

第二次長州征討で停戦協定に向かった勝安房といい、今回の山岡鉄太郎といい、江戸っ子は結構な無茶をする人たちばかりです。

山岡鉄太郎はそれはそれは堂々と敵地を歩いていたそうで、「朝敵徳川慶喜の家臣、山岡鉄太郎でござる」と大声で言いながら歩いていたとかなんとか。

勇気ありすぎ!!

しかもこの山岡鉄太郎、西郷さんと面会した時も慶喜への忠義を示すために切腹までしようとする猛者。

史実では慶喜の処遇を巡って忠義を示したみたい。西郷さんから突きつけた降伏条件として、慶喜の身柄を備前藩預かりとする、なんてものがあったのですが、これは殿に対してとても失礼なこと。

「西郷さん、もし仮に薩摩が朝敵の汚名を受けたとして、島津公を他藩に預けることができますか? そんなことできないでしょう」と、慶喜の処遇について最後まで頑として譲らなかったそうな。この忠義に心を打たれた西郷さんは、慶喜の身柄の扱いについては自分が責任を持って朝廷と話し合うこととし、勝安房との会談を受け入れることに。

山岡鉄太郎がいなかったら慶喜は多分助かってなかったし、西郷さんたちは普通に江戸の町を焼き払っていたかも。

なおこの辺の話も国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。『戊辰解難録』という山岡鉄太郎がこの頃を振り返って書いた本で、「大声で『朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎が通る』と言いながら歩いてやったぜ」みたいな感じでこの辺のエピソードが書かれています。

篤姫と再会

山岡鉄太郎との会談で態度を軟化させた西郷さんは、江戸に入って篤姫と再会を果たしました。

実に12年ぶりの再会。

高校の同級生だったとしたら、30になった同窓会とかで再会する感じでしょうか。もうだいぶ様子も変わっていそうですね。

篤姫はもはや大奥の重鎮、徳川家において無視できない重要なポジションにいます。次回の江戸城の無血開城に向けて大事なお話がありそう。

江戸に入った直後、幾島さんと再会したのもよかったですね。「もす」に突っかかってたのも懐かしい。あれってもう半年くらい前のことですか。時間の流れは早いです。

まとめ

何が何でも慶喜をぶった切る! と息巻いていた西郷さんでしたが、山岡鉄太郎の慶喜に対する忠誠心によって心を動かされ、命は助ける方針に。

次回はついに江戸城の無血開城です。

勝先生との対談で何を語るんでしょうね。楽しみ。